いくさーのごーれむを召喚

https://twitter.com/Golem_Ikusa 長めの呟き

対話というふわふわした概念

カードゲームにおける対話とはなんなのか、わからなくなっている自分がいる。
人によって望むものが異なるのは当然だが、Aを絶賛してBを貶す意見とBを賛美しAを酷評する意見をみれば混乱もしよう。
自分は対話がよくわかってないんじゃないかなと、言葉にしづらい言葉を分析する試みだ。

原始の対話

対話にはコールとレスポンスが必要であるはずだ。
対して話すという言葉の通りに、相手に対するアクションとそのリアクション、その繰り返しを対話と呼ぶ。
ハースストーンにおけるもっとも原始的な対話は盤面を介したアドバンテージの取り合いになるだろう。
コストを払って戦場に強いミニオンを置くアクションに対して、相手は除去や無視といったリアクションをとる。
これを繰り返して相手のリソースのひとつであるヘルスを削りきった方が勝つ。
つまり置く、残す、除くといった選択肢の提供とその選択という対話である。
目を見る、声をあげる、体を当てるなどの、既に世界にあるルールに厳密に従った対話と言えるんじゃないだろうか。
つまり本来は基本的にあらゆるプレイが対話であるはずだ。
ハースストーンの性質上どんな行動も選択肢を生む。
自身のドローすら行動を増減させる。
対戦行為自体が既に対話なのだ。

高度な対話

では、対話がないと感じられるのはなんなのか。
すなわちカードを使ってミニオンを出して、呪文で除去を行う行為はもう対話ではないと言うことだろうか。
きっとそうなのだ。
つまり、プレイヤーはもう原始的な対話の段階を越えて、行動外の意図やその背後にある意味などを介した高度な対話を行っている。
言語の発達は抽象的な概念を伝えられるように対話を拡張したが、ハースストーンにもそれが起きていたのだろう。
まず勝利条件が多様化した。
相手の選択肢を削りきることで支配するデッキや、相手のすべてのアクションを無視してヘルスだけを削り続けるデッキ、一撃ですべてのヘルスを削りきるために耐え続けるデッキなどが成立している。
ルール上存在するのは「ヘルスを削りきったら終わり」だけなのに、そこに至るまでの過程が多様化した。
互いのデッキが明確な意図を持つようになると、相手のためのものだったアクションが特定のムーブを成立させるための準備となった。
決め台詞を言うためにずっと睨みあっているようなデッキが生まれてきた。
もちろん従来の対話をし続ける人もいるが、それだけでは通じないことも増えただろう。
当初あった対話の意味が薄れて、自分の意図をいかに通すかが重要になっている。
現環境で対話拒否の最たるデッキはラスパラディンになるだろうか。
盤面の除去と回復を繰り返し1ターンで25点を出すことに特化している。
デッキの意図の通し合いとみればこれも対話になるのだが、従来の盤面を取り合っていく対話はほぼ感じられないだろう。
フェイスハンターも意図を通す方向性のデッキで、対話を無視するデッキだ。
ヘルスを削りきって勝つことに特化したデッキで、相手がとるあらゆるアクションを無視してヘルスを削り続ける。

本音

そう。
自分はフェイスハンターは綺麗で、対話もできるデッキだと思っている。
全ての行動がヘルスに直結しており、「どちらが先に死ぬか」「耐えきれるか」といった盤面から見えない対話はなされているように感じる。
きっとラスパラディンもそうだ。
ラス側の限りある除去を切らせたり温存したりといった抽象的な対話をしているはずなのだ。
巨大なスタッツのミニオンを並べられて自分の選択肢を消し飛ばされるより、遥かに健全なデッキじゃないかとすら思っている。
自分は一時期コントロールウォリアーが大嫌いだった。
対話の面から否定しようとしたことすらある。
でも裏では対話してたはずなのだ。
当時最強のデッキとはいえ全ての試合で勝ったわけではなかったのだから、付け入る隙も対話の気配の欠片もあったはずなのだ。
ただ、対話の概念を自分のデッキのそれに縛ってしまうと、それ以外のプロトコルを対話と思えなくなってしまうだけだったのだろう。
実際自分の好みはアグロデッキで、デッキ切れまで粘ることを卑怯と思っていた節がある。

まとめ

この長文を通して何が言いたかったかと言うと、自分は対話の事をまだよくわかってないと言うことです。
きっとこれからも抽象的な対話に特化したデッキは生まれるし、アクションを無視するデッキも生まれるでしょう。
そういった、見えづらくなった対話を自分は無視しないようにしたい。


スマホから投げたのであとで整理します…